Stephen Barrass(スティーブン・バラス)の Chemo Singing Bowl は、化学療法を受けた人の1年分の血圧を、鉢の形に写した作品です。鉢を鳴らしたときの響きで、そのデータを伝えます。鉢はステンレス鋼の3Dプリントで、叩くか、縁をこすって鳴らします。作者は、データで形を決めた鳴る物体を Acoustic Sonification(音響ソニフィケーション)と呼んでいます。
作品は2016年1月18日に作者のブログで公開され、同じ年、シドニーの応用美術科学博物館(MAAS)の展覧会に出品されました。以下は、作者のブログ、国際会議 ICAD 2016 の展示論文、前作を扱った2014年の論文、Barrass が共著者に入った2019年の論文に沿います。資料どうしで書き方が違う点は、違いとしてそのまま示します。
2013年、自分の血圧を「歌う鉢」にする
Chemo Singing Bowl には前作があります。作者本人の血圧で形を決めた Hypertension Singing Bowl です。2013年7月にブログで公開し、2014年に会議 SoniHED で論文にしています。
きっかけは、高血圧と診断されたことでした。Barrass はカフで収縮期と拡張期の血圧を測り、アプリに記録し始めます。アプリが描く時系列のグラフについて、論文にこう書いています。
The plots of my blood pressure are generic and could have been share prices or CO2 emissions. Surely there was a way to make this personal dataset more personal, and more engaging.
自分の血圧のグラフはありきたりで、株価や CO2 排出量のグラフでもおかしくない。この個人的なデータを、もっと個人的で、引き込まれるものにできないか、という要旨です。
鳴る物体には、チベットのシンギングボウル(singing bowl)を選びました。縁をこすると、持続音で「歌う」鉢です。瞑想やリラクゼーション療法と結びつき、それらが血圧を下げうることが理由でした。
最初の試作(v0.0)は、壁の厚さをデータで変え、最大5mmになりました。叩くと3628Hzが3秒鳴りますが、こすっても歌いません。次の版(v1.0)では壁を2mmにそろえ、時間軸を鉢の周に沿って置きます。読み取り1組ごとに、縁と底をつなぐ「スポーク」を1本割り当て、上半分の半径を収縮期、下半分の半径を拡張期の値で変えました。

Stephen Barrass/ICAD 2016「Research Through Design into Acoustic Sonification」より引用(CC BY-NC 4.0)
v1.0 は直径100mm、重さ162g です。叩くと609Hzが10秒鳴り、縁をこすると伝統的な鉢のように歌いました。2Hzのトレモロとヒス音も出て、作者は「データのスポークが原因かもしれない」と書いています。前作を鳴らす2014年の動画が YouTube にあります。ICAD 2016 の論文は、前作をこうまとめています。
The bowl sings like a traditional singing bowl, but with a timbre that is changed by the dataset.
鉢は伝統的な鉢のように歌うが、音色はデータによって変わっている、という要旨です。
化学療法の1年を、曲がった帯に写す
Chemo Singing Bowl のデータは、作者本人のものではありません。乳がんの化学療法を受けた人が、治療の1年間に記録した血圧です。作者のブログ(2016)は、こう紹介しています。
This version of the acoustic sonification singing bowl introduces 3D splines as a way of mapping the data into the form. The irregularity of the dataset makes for inharmonic and dissonant acoustic effects.
この版では、データを形に写す方法として 3D スプライン(制御点でなめらかな曲線を描く方法)を取り入れた。データの不規則さが、倍音の整わない、不協和な響きを生む、という要旨です。ICAD 2016 の論文は、写し方の意図を書いています。
This mapping aims to amplify the effect of the dataset on the acoustics of the bowl by mapping the diastolic/systolic pressure to control points for the curvature of 2D splines amped to the tines.
拡張期・収縮期の血圧を、スプラインの曲率を決める制御点にし、そのスプラインを tines(帯)に写す。データが音響に与える効果を増幅するためだ、という要旨です(“amped” は “mapped” の誤記と見られます)。前作は太さの変化に写し、Chemo は帯の曲がり方に写したことになります。

Stephen Barrass/SONIFICATION.COM「Chemo Singing Bowl」より引用
写真では、帯の長さや曲がり方が一本ずつそろっていません。

Stephen Barrass/SONIFICATION.COM「Chemo Singing Bowl」より引用
資料から確かめられる対応は、次のとおりです。
| データ | 物の性質 | 出典 |
|---|---|---|
| 化学療法の1年間に記録した血圧 | 鉢全体の形(ステンレス鋼の3Dプリント) | 作者ブログ(2016) |
| 拡張期・収縮期の血圧の値 | スプラインの曲率を決める制御点。そのスプラインを帯に写す | ICAD 2016 |
| 1年間の血圧の読み取り | 鉢の周りのスプラインの変化 | Wang ほか(2019) |
| データの不規則さ | 倍音の整わない、不協和な響き | 作者ブログ(2016) |
| 読み方 | 叩く、またはこすって鳴らす。音は形から決まる | Wang ほか(2019) |
時間の並びを周に沿って置いたと明記した資料はありません。前作 v1.0 がそうしていたこと、「鉢の周りのスプラインの変化」とあることから、Chemo も周に沿って並べたと読めます。読み取りの件数、帯の本数、寸法、周波数は、どの資料にも見当たりませんでした。

Stephen Barrass/SONIFICATION.COM「Chemo Singing Bowl」より引用
鉢は歌うのか──資料ごとの食い違い
資料は二つの点で書き方が違います。鉢が歌うかどうかと、スプラインが2Dか3Dかです。
| 論点 | 資料 | 書かれていること |
|---|---|---|
| 歌うか | ICAD 2016 | “This bowl does not sing very well”(あまりうまく歌わない) |
| 歌うか | Wang ほか(2019) | “not sing harmonically”(調和して歌わない) |
| 歌うか | 作者ブログ(2018) | “3D printed in stainless steep [steel] so it sings”(歌うように3Dプリントした) |
| 次元 | 作者ブログ(2016) | “3D splines” |
| 次元 | ICAD 2016 | “2D splines” |
2018年のブログは、ドイツの Schloss Dagstuhl のセミナーに持参したデモの一覧で、前作にも同じ言い方をしています。
歌わない原因の説明も違います。ICAD 2016 は “possibly due to the curved shape of the tines”、帯が曲がった形のせいかもしれない、と書きます。ブログと2019年の論文は、データの不規則さを挙げます。ICAD 2016 は、次の版では音響の理論で歌う効果の改善を探る、と続けますが、その版について書いた資料は見つかりませんでした。
帯の形とデータの不規則さのどちらが主な原因かを書いた資料は、見つかりませんでした。 曲率に写せば、データが不規則なほど帯の形も不規則になるので、形の効果とデータの効果は一つの音にまとまって出てくる、と読めます。前作は太さに写して歌い、Chemo は増幅のため曲率に写してあまり歌わなくなった、と並べると、データの性質と写し方の選択がどちらも響きに出ていると読めます。
「あのときの自分の感じ方」──データを提供した人の言葉
2019年の論文によれば、この鉢は、化学療法のあいだの看病への感謝として、患者の母親に贈るために作られました。音を聞いたデータ提供者の感想は、三つの資料で言い回しが違います。
| 資料 | 感想 |
|---|---|
| ICAD 2016 | “it sounds as sick as I felt at the time” |
| Wang ほか(2019) | “that’s exactly how I felt at the time” |
| 作者ブログ(2016) | “… quite accurate – the sound is dry and heavy, without much resonance, just like I felt!” |
あのときの自分と同じくらい具合の悪い音がする。まさにあのときの自分の感じ方だ。ブログの版は、かなり正確で、音は乾いて重く、あまり響かない、自分が感じていたように、と続きます。
前作は、作者が自分のデータを自分で聴く鉢でした。SoniHED 2014 の要旨は、データを瞑想的に見つめ直し、健康な暮らしを思い出させるもので、自己記録のありきたりなグラフに代わる “poetic alternative”(詩的な選択肢)だ、と書いています。
Chemo は、別の人のデータで作り、データの持ち主がその音を聴きました。前作の「個人的なデータを、もっと個人的に」という問いが、他人のデータで、その本人に返ったと読めます。持ち主が使った言葉は「正確だ」「まさに」でした。グラフを読む正しさではなく、記憶にある体の感じとの一致を指していると読めます。
第三者はこの作品をどう見たか
Chemo Singing Bowl を独立に論じた批評や報道は、見つかりませんでした。扱われ方は三つあります。
一つ目は、2019年の IEEE Computer Graphics and Applications の論文 “An Emotional Response to the Value of Visualization” です。Yun Wang らの共著で、Barrass も入っています。2018年の Dagstuhl のセミナーの作業部会から生まれました。
Informed by the role of emotion in psychology, art, design, marketing, and HCI, we argue for an expanded definition of value, applicable to all forms of data visualization.
感情の役割を踏まえ、可視化の価値の定義を広げるべきだ、という要旨です。効率で測る既存の枠組み(ICE-T など)ではデータ物理化の価値を見落とす、と論文は書き、Chemo の鉢をその例に挙げます。Barrass が共著者なので、完全に独立した評価ではありません。
二つ目は、データ物理化の作品目録 dataphys.org です。Chemo 単独の項目はなく、前作群の項目「2011 – Stephen Barrass’ Physical Data Sonifications」があります。Pierre Dragicevic(ピエール・ドラジチェヴィッチ)が追加し、Yvonne Jansen(イヴォンヌ・ヤンセン)が推薦した項目です。
Physical representations of data can target other senses than vision or touch.
データの物理的な表現は、視覚や触覚以外の感覚にも向けられる、という要旨です。HRTF Bells(左右の耳の特性で形を決めた鐘)については、形の違いはほとんど見えないが、音の高さと音色は比べられる、と書いています。
三つ目は、美術館での選定です。MAAS のキュレーター Matthew Connell(マシュー・コネル)は、2016年9月3日〜2017年6月25日の「Out of Hand: Materialising the Digital」にこの鉢を選びました。作者のブログによれば、デジタル製造の役割を扱う展覧会で、Zaha Hadid や Iris van Herpen らの作品と並びました。同年の DESIGN Canberra Festival でも紹介され、ICAD 2016 と2018年の Dagstuhl では、手に取って鳴らせるデモとして置かれています。

Stephen Barrass/SONIFICATION.COM「Data Physicalisation @ Schloss Dagstuhl」より引用
書籍では、Samuel Huron、Till Nagel、Lora Oehlberg、Wesley Willett 編『Making with Data: Physical Design and Craft in a Data-Driven World』(AK Peters / CRC Press、2022)に、Barrass の章 “Chemo Singing Bowl” があります。第3部 “Digital Production” の 3.1 章、pp. 185–198、DOI は 10.1201/9781003264903-11 です。章の本文は、今回は読めていません。
使い道
この鉢から持ち帰れるのは、写し方を変えると、物そのものの振る舞いが変わるということです。画面のグラフなら、値を太さで表すか曲がり方で表すかを変えても、画面の振る舞いは変わりません。鳴る物では、写し方がそのまま響きを決めます。
Barrass は前作の論文で、v0.0 が歌わなかった反省として、写し方に進む前に、データを入れない基準の鉢を先に刷って試すほうが効率的だった、と書いています。素材が媒体になる物理化では、この手順がそのまま使えます。
Chemo は、効果を「増幅」する写し方が、比喩の土台を崩しうることも示しています。歌う鉢という比喩は、鉢が歌うことで成り立ちます。それでも、データの持ち主は濁った響きを「正確だ」と言いました。比喩が崩れたこと自体が、データを伝えたと読めます。
もう一つは、原因の切り分けです。写し方を変えたら、同じ形にデータを入れない版も作って聴き比べる。そうすれば、聴こえる違いのどこまでがデータによるものかを言えるようになる、と筆者は考えます。
参考・出典
一次情報
- Stephen Barrass, “Chemo Singing Bowl”(SONIFICATION.COM、2016-01-18) https://sonification.com/2016/01/18/chemo-singing-bowl/
- Stephen Barrass, “Research Through Design into Acoustic Sonification”, ICAD 2016 installation paper(CC BY-NC 4.0) https://www.icad.org/icad2016/proceedings2/installations/ICAD2016_paper_52.pdf
- University of Canberra Research Portal, “Chemo Singing Bowl: Out of Hand - Materialising the Digital” https://researchprofiles.canberra.edu.au/en/publications/chemo-singing-bowl-out-of-hand-materialising-the-digital/
- Stephen Barrass, “3D Printed Acoustics @ Out Of Hand, Sydney”(2016-09-03) https://sonification.com/2016/09/03/out-of-hand-materialising-the-digital/
- Stephen Barrass, “Chemo Singing Bowl @ DESIGN Canberra”(2016-10-28) https://sonification.com/2016/10/28/design-canberra/
- Stephen Barrass, “Data Physicalisation @ Schloss Dagstuhl”(2018-10-30) https://sonification.com/2018/10/30/data-physicalisation-schloss-dagstuhl/
- Stephen Barrass, “Making With Data”(2022-12-13、目次の転載) https://sonification.com/2022/12/13/making-with-data/
- Stephen Barrass, “Chemo Singing Bowl”, in S. Huron, T. Nagel, L. Oehlberg, W. Willett (eds.), Making with Data: Physical Design and Craft in a Data-Driven World, AK Peters / CRC Press, 2022, pp. 185–198(本文は未読) https://doi.org/10.1201/9781003264903-11
- Stephen Barrass, “Acoustic Sonification of Blood Pressure in the Form of a Singing Bowl”, SoniHED 2014, York https://www.york.ac.uk/media/c2d2/media/sonihedconference/Barrass_SoniHED_2014.pdf
- University of Canberra Research Portal, “Acoustic Sonification of Blood Pressure in the Form of a Singing Bowl”(要旨) https://researchprofiles.canberra.edu.au/en/publications/acoustic-sonification-of-blood-pressure-in-the-form-of-a-singing-/
- Stephen Barrass, “Hypertension Singing Bowl”(2013-07-10) https://sonification.com/2013/07/10/hypertension/
- Stephen Barrass, Hypertension Singing Bowl のデモ動画(YouTube、2014) https://www.youtube.com/watch?v=DE3tolD5Krg
- Stephen Barrass, “Sound in Data Physicalisation”, Dagstuhl Reports 8(10), 2019, §5.4 https://drops.dagstuhl.de/storage/04dagstuhl-reports/volume08/issue10/18441/DagRep.8.10.127/DagRep.8.10.127.pdf
第三者評価
- Yun Wang, Adrien Segal, Roberta Klatzky, Daniel F. Keefe, Petra Isenberg, Jörn Hurtienne, Eva Hornecker, Tim Dwyer, Stephen Barrass, Theresa-Marie Rhyne, “An Emotional Response to the Value of Visualization”, IEEE Computer Graphics and Applications 39(5), 2019(Barrass 共著) https://petra.isenberg.cc/publications/papers/Wang_2019_AER.pdf / doi:10.1109/MCG.2019.2923483
- dataphys.org, “2011 – Stephen Barrass’ Physical Data Sonifications”(Pierre Dragicevic 追加、Yvonne Jansen 推薦) https://dataphys.org/list/barrass-physical-data-sonifications/
- Jason Alexander, Petra Isenberg, Yvonne Jansen, Bernice E. Rogowitz, Andrew Vande Moere (eds.), Dagstuhl Seminar 18441 “Data Physicalization” 報告書, Dagstuhl Reports 8(10), 2019 https://drops.dagstuhl.de/storage/04dagstuhl-reports/volume08/issue10/18441/DagRep.8.10.127/DagRep.8.10.127.pdf
- Out of Hand: Materialising the Digital(MAAS、キュレーター Matthew Connell、2016-09-03〜2017-06-25)。選定の事実は作者ブログで確認 https://sonification.com/2016/09/03/out-of-hand-materialising-the-digital/
- Making with Data 書籍サイト https://makingwithdata.org/




